人生の秋
若者の自分捜しという言葉を耳にする。
果して自分とは、アイデンティティーとは何であろうか。
ルーツを辿るということがある。自分が何処から来て何処へ行ってしまうのか。考えれば考えるほど不思議に思えて来る。
先ず、誰しも考えるのはご先祖様であるが、天皇家でもない限り、系図などを辿って行っても、精々何代前とか、また解ってもたかが知れている。その前の前のと最後まで遡れば、北京原人とかネアンデルタール人になってしまう。お叱りを受けるだろうが、天皇家と言えども、最終的には人類みな同じ、同族、親族となるのだろう。そうして次は、人間はどうして創られたのかと想像はさらに掻き立てられ、際限なく遡る。
話を過去から現在に戻してみる。
「自分を捜す」、「自分らしさを求める」、、、非常に抽象的な言葉であるが、私にも解らなくはない。私も子育てをしながら、過去、何十年も、いつも心の隅で問い続けてきたテーマであった。僅かながらその類の本を読み、いつも何かあると信じて生きて来た。
常に思って来たことは、「自分捜し」とは、今現在の生活と共にあるのではないか、ということである。
前述の通り、私は三人の子等とともに、仕事を持った人は仕事をしながら、その日常と共に考え、自分を捜していく。この「ながら」が大切だと思う。子育てを辞め、仕事を辞めたからと言って、そう簡単に答えが見つかる問題ではないように思うのだが…。
人生の秋に近づき、私の自分捜しの旅も終盤戦に入って、私にもほんの少し解りかけてきたような気がする。
- 自分の好きなことをする。
- 好きな道を歩む。
それが生かされている私のやれることであり、本当に個人的に思うだけで、小さな声でしか言えないことである。又、他の人は別の解答を得ているのかもしれない。人、様々であるが、結局は確かに自分で捜し見付けて行く旅なのであろう。
人にもよるのであろうが、見付かる場合も見つからない場合もあるかもしれない。だが、長年、本当に長い歳月を経て、人は何かを知る、何かを得ることが出来る、そんな日が屹度来るであろう。そして、その時こそ、本当の自分に出逢えるのだろうと思う。
