五輪の塔

2013年11月30日 オフ 投稿者: seiko

早朝の散策によく神社・仏閣を廻ることがある。と言っても、古刹・名刹という程のしろものではない。何処の街にでもある普通の社寺である。気が向くと、その寺の墓などを一巡りすることがある。その折、一際目立つ立派な五輪の塔のついた広い面積の某家の墓に佇つことがある。昔、商売繁盛されていた頃を思い出し、何とも言えぬ寂しさ、虚しさに襲われ、茫然自失になってしまうことがある。

この墓地の主人は、かつてこの街一番の豪邸に住んでいたのである。当時、日本中が潤ったバブル期であった。ご主人は何でも不動産やスーパーなどいくつもの社長をしているという話であった。

ひょんなことから、その社長の夫人と知り合いになり、私は一度だけ御宅にお邪魔させて戴いたことがあった。

先ず広い屋敷に入ると、犬の家である。

とは言っても、六畳ほどの子供部屋の広さなのだ。犬の学校を卒業したというドーベルマンは流石によく訓練されていて、物凄い顔と声で私に噛みつきそうに吠えたてた。これが、しかも三頭である。主人に宥められ、漸く鳴き止んだが、もうこれだけで足が竦んでしまった。そして玄関、我が家の玄関の五倍位か、とに角広いのである。リビングルームが30畳程、他の部屋もゆったり造られている。こうした普通の部屋の他にシアタールームや麻雀ルーム等があった。貧乏人の私は、これは冷暖房費だけで大変だろうなあと思っていると、二階に続く階段の踊り場の両側は「絵画、絵画」がびっしりと画廊並みなのであった。もう声も出なくなりそうであった。中には、リトグラフなどもあったようだが・・、絵画の値など知る由もないのだが、もうこれだけで普通の家なら二、三軒建つのではないだろうか、と思われた。

お茶を戴きながら恐れ多くなり、早々に腰を上げた。

吹けば飛ぶような拙宅に帰り、深呼吸した。いつもの安い茶と饅頭が何故か大変に美味しく感じられた。


それから七、八年ほど経ったろうか。御主人の経営していた会社が全部倒産したことを風の便りに聞いた。稀に、嘗てかの豪邸があった辺りを通ることもあるが、あの恐ろしかった犬も犬小屋も見ることはない。言うまでも無いが、嘗ての豪邸は跡形もなく、今は新しい小さな家が数軒建っているのが見えるだけだ。勿論、夫人にお目にかかることはない。

今にも雪が舞いそうなどんよりとした空模様の中、今朝の散歩も終わり、帰路に着いた。


二、三年後の四温のある昼下がり、隣の街まで探梅と洒落て歩いてみることにした。

初めての道を通ったり、わざとぐるぐる廻、ったり、迷子になりかねないほどの散歩となってしまった。

そうこうしている内に、突然犬に吠えたてられた。今にも低い塀を飛び越えて私を襲って来るようであった。飛び上がらんばかりに驚き、思わず後ずさりをした。

ふと何気なく出入り口の方を見ると、木の板の小さな表札があり、名前に見覚えがあった。何とかつて街一番の豪邸に住んでいた〇〇様の苗字だったのである。

荒れ果てた狭い庭に平屋建の小さな家がぽつんとあった。閉ざされたカーテンの向こうに人の気配は感じられず、私を虚ろにさせた。

あっ、あの犬だ! 三頭の内の一頭のドーベルマンであった。放し飼いにされているようであった。

犬は引越ししたことも知らぬ気に、教わった通り、今もなお忠実に、豪邸用の番犬として立派に仕事をしていたのであった。