時代遅れ
先日、新築して三ケ月ばかりの友人の家を訪ねた。家はシックでモダンというのだろうか、流石に友人らしいセンスが至る所に溢れ た立派な建物であった。
が、トイレは立派を通り越し、文明の利器の凄まじさを思った。暖房とウォッシュレットはいうまでもなく、トイレの扉を開けると、まず電燈がつく、便器の蓋が持ち上がる、音姫という小箱から音が流れ出す、用を足す音が聞こえないようになっている。用が済むと、又、水が流れ出す、蓋が閉まる。これらのすべてが便座様の仕事で、自動で勝手にやって下さるのである。
ここまで便座が進歩すると、私には尾籠な話であるが、便秘も下痢も無いように思えてくる。便座に座れば、立ち処にこれらを解決してくれる。便秘はスムーズに快便を促し、下痢も立派な普通便になる、私に言わせれば、便座とはここまでの役割を果たして新製品と言える時代のようだ。
又、病院などで使用される非常ボタンも必要無しだ。具合の悪い人をセンサーが感知し、看護師ステーションに知らせてくれる。これが新式のトイレットルームになるのだ。
と、こんなことを思いながら手を洗おうとして蛇口の前に手を出すと、これが又、勝手に水が流れ出るのであった。
果して私はこの個室で何をしたのか。確かに扉を開けた、用は足した、だが、便座の蓋を開けたのも、水を流したのも私ではない、ましてや、蛇口を捻った訳でもない。
たまに行くデパートやパーキングなども殆どがこのパターンだ。田舎者の私には便利さを通り越して空恐ろしくさえ思えてくる。
前にも書いたが、私には四歳になる孫がいる。小さい子が育って行く過程で、何の疑問も抱かず、トイレとはこのようなものと思い、大人になった時にどうなるのだろうか。
こんな時代遅れのことを考えるのは私だけなのだろうか。確かに節電や節水の意味で大きな効果を得ることは百も承知だが、こんな便利な世の中であるからこそ、小さい子に、電気のスイッチを押す、済んだらレバーを押す、蛇口を捻る、手を洗う、せめてこの位の経験はさせたいのである。
私はたまに海外へ旅行する機会もあるが、ここまで至れり尽せりの、言葉を換えれば、行き過ぎたトイレにはお目に掛かったことが無い。ウォッシュレットは確か日本で開発されたものと聞いたように記憶しているが・・・。
確かに便利とは良いことである。早い、ムダが無い、間違いが無い、パソコンだってスマホだってそうだ。これらは、ここまでグローバル化した今の時代に、仕事に生活に最早欠かせないものである。が、又一方では、まだ物事の良し悪しの判断が出来ない内から、その中にどっぷり漬かって育った人間はどうなって行くのだろうか?また、どういう社会になって行くのだろうか?日本でも既にスマホ依存の問題が取り上げられている。
ⅠT時代と言われて久しく、文明の発達、とりわけ科学の発達は人間社会に目覚ましい経済発展と利便性を齎して来ている。
その文明の利器を私たちはどのように駆使して行くのか、それは、利用する側の責任ということになるだろうが、時代遅れの私には「もうこれ以上進歩しなくて結構」と、つい言ってしまいたくなるのである。
