玉の輿のあとさき
( 1 )
田中良美は埼玉県さいたま市に生まれた。
父親の透は中小企業の会社員で、母親の厚子は近くの医院の看護師をしていた。
彼女は三人弟妹の長女で、二歳下の妹、明美と四歳下の弟、健がいた。
良美の母親が働いておられるのは、医院が家のすぐ近くで昼間だけの勤務であることが第一の要素であったが、それにも増して決め手となったのは、厚子が三人の子供を産み下ろした時から、義母の常子が孫三人の面倒を引き受けて、家庭をしっかり守ってくれていたからであった。そのことについては、厚子が常子に何時も感謝の気持ちを抱いていることは、良美達にもハッキリと感じられていた。このような家庭であったので、田中家には世間一般で言われるような嫁姑のわだかまりが殆ど無く、相当にうまく行っていたに違いない。
祖父は、息子の透が結婚する一年ほど前に既に他界していた。
良美は、「大きくなったら、何になりたいの?」と聞かれると、戸惑うことなく決まって、「お母さん」とか「看護師さん」と、言っていた。
良美は、たまに風邪などで祖母に連れて行かれた近くの医院で、看護師の母親の清々しい白い制服や、患者さんに対する優しい応対を見て、何時もそう思うのであった。
三人の子供たちに大きな声で、「ああしなさい」、「こうしなさい」といつも言っているのは、祖母の常子で、父親と母親は優しい「役柄」をしていれば良い状況が続いていた。
良美の家庭では、「おばあちゃんに任せておけば大丈夫」と祖母を信じ切った雰囲気で、歯車が廻っていたが、任されている祖母の常子の方も満更でも無さそうであり、逆に遣り甲斐があったのではないだろうか。良美の両親にとっても、これ以上安心して任されるベビーシッターなり家政婦が居なかったのではないだろうか。言うまでもなく、感謝の上に感謝の心を重ねてのことではあったが。
こうして、おばあちゃんっ子で育った良美の小中学校の成績はトップクラスとまでは行かないが、常にまあまあ上位の方に足を引っ掛けていた。いわば、五段階評価の四のクラスに入っていたと言ったところであった。
彼女はまた、走るのがとても速く体がしなやかで、体育全般に得意であった。春・秋の運動会の花形でしかも弟妹の二人も揃って走るのが速かったので、当日は、祖母と両親の三人が弁当を持って駆けつけて、大賑わいの一日となるのであった。
このような家庭の中で、良美をはじめ二人の弟妹も特に問題もなく素直に成長して行った。とりわけ、良美は総領の甚六というのか、のんびりとした明るい性格の子供であった。
( 2 )
このようにして、彼女は小さい時から看護師になる夢を描き続け、長じて、看護大学に入学し、四年間の真面目な勉学の末、卒業と同時にそのまま大学病院に看護師として残れることとなった。念願がかなって母親と同じ職業の看護師になったののであった。良美は、改めて、母親のように何時も患者さんの立場に立って考えられるような優しい看護師になろうと、改めて心に誓うのであった。
看護師は当たり前の話ではあるが、医療や治療を施す訳ではないから、何よりも患者さんの心がゆったりと落ち着いていられるように、また、担当医師が仕事をし易いように手伝うことが、看護師の使命であると、良美は看護大生時代から常に心していた。それには、彼女自身、何時も明るく爽やかでいなければ・・・と、にこやかで思いやりのある看護師を目指していた。
こうして内科勤務になった良美は、朝の明るい挨拶に始まり、入院患者へ体温計を渡したり、尿や便の回数を記録したり、食前・食後の薬を配ったり、と忙しく働いていた。特に、薬の配布の際に患者の名前を間違ったら大変なことになる。医療ミスに繋がり兼ねないので、神経を使う所であった。点滴も同様であった。又、注射の際に血管がなかなか出ない患者に二度も注射針を刺したりすると、
「痛いじゃないの。貴女、新人でしょ? きちんと出来る人を呼んで来てよ。」と、怒られることも何度かあった。
彼女は、「すみませんでした。」と謝りながら、心の中で泣きべそをかいて、今度は上手にしなければ・・・というように、先輩の看護師に教わりながら、気持を引き締めて努力して行った。
( 3 )
仕事に就いて半年程経った頃であった。内科医の佐藤聡医師から、「コンサートの切符が手に入ったから・・・。」と、デートの誘いがあった。
当日、渋谷のオーチャードホールは満席で、曲目は、ベートーベンの「皇帝」に「英雄」であった。良美は妹の明美と一緒に中学生までピアノを習っていたので、音楽は全般的に好きだったが、ベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」は特に好きな曲目の一つだったので、とても楽しく観賞することが出来た。
演奏会が終わって、少し遅めであったが、二人は近くのイタリアン・レストランで夕食を取った。モーツアルトやショパンの話や、良美から不慣れな仕事の話などもしたりして緊張しながらも楽しいひと時を過ごした後、聡は良美を家まで送って来てくれ、「また逢おうね。」と握手して別れた。
それ以後、良美は時々聡のデートの誘いを受けるようになり、交際(つきあい)を重ねるようになって行った。
実は、良美は中高生の頃から、「綺麗だね」、「綺麗だね。」と周りから言われる程に、大変な美人になっていたのであった。
彼女は女子校だったので、本人はあまり意識しないで来たが、それほど色白ではないものの、背が高く、黒々とした長い髪の毛、眉は濃く、目もアイラインを入れたように大きい。また、鼻が高く、一瞬、外人と見紛う程であり、中近東の女性を思わせるように彫りが深かった。
彼女は、両親や祖父母に全く似ていず、何処をどう取って、そのような顔立ちになったのか、不思議な程であった。
良美は美人で、仕事熱心で、明るく、優しい。これではもう文句のつけようが無い。こんな彼女がもてない筈が無かった。患者からも人気があり、「この娘を・・・」と、良美を狙っている医師も、聡の他にいたに違いない。その上、彼女は看護師仲間ともこれといったトラブルも無く上手く行っていた。と言うのは、彼女はごく普通の家庭の生まれ育ちであり、ましてや、まだ勤務して半年余りの新米で、上司の婦長や先輩の看護師達に教わることばかりであったから、美人ではあるが、何処からどう見ても天狗になりようがなかったのであり、勿論、彼女の元来の性格から言っても、そうはならないのであったが。
一方、聡は中肉中背で、中学まで水泳をやっていたので、が体が良かった。良美とは逆に、あまり凹凸の無い平べったい顔に細い目を二つ置き、眼鏡を掛けていた。優しい話し方で、そこから育ちと人柄の良さが伝わって来るようであった。
彼はまだ28歳の若輩者の医師で、これから研鑽を積まなければならない立場にあった。
聡と良美は、仕事熱心で真面目で優しいという点では医師と看護師の大きな差はあったが、医療に携わる者として基本的な共通点を持っていた。このような二人が当然にして魅かれ合わない訳は無かったのである。
こうして良美と聡は、休日が合えばというより、合わすようになっていたのだが・・・、必ずと言っていいほどにデートを重ねるようになった頃、良美は聡からプロポーズを受けた。
聡は、良美が内科に入って来たその瞬間から好きになったのだ、と良美に言った。いわゆる「一目ぼれ」というのだろう。
良美は看護師になってまだ一年であった。良美はこれから本物の看護師になろうとしていた矢先であった。聡にこのことを話をすると、彼は、「実家が医者だから、続けようと思ったら、いくらでも続けられるさ。チッポケな総合病院だがね・・・」と言うのであった。
「何だって。チッポケな総合病院?」、良美は驚いてしまった。「個人の医院であればともあれ、とんでもない。そんな処に嫁に行ける訳がない」と、思った。
「両親に逢ってみてよ」と彼に口説かれて、翌週の休日に帝国ホテルで聡の両親に逢うことになった良美は、
当日、ピンクのワンピースにパールのネックレースをつけて出掛けた。
ホテルのロビーの大きな壺には枝ものにカサブランカや薔薇などが豪勢に活けられていた。
昼食は和食であったが、良美は何を食べたのか全く記憶が無く、まるで面接試験を受けているように固くなってしまっていた。
聡の父親はダークスーツに身を固め、医師としての風格を感じさせながらも、何処か柔和な人柄を思わせた。
一方、母親は、良美には何染めか知る由もなかったが、高価そうな着物に帯を締め、指に大きなダイヤを光らせて、いかにも良家の奥様然とした品格を感じさせた。が、何処かにツンケンとした雰囲気を漂わせていた。
昼食後、両親に別れた二人は日比谷公園を散歩した。聡は、「あんなに固くならなくても良かったのに・・・。父も母もきっと気に入ってくれたと思うよ。」と、言ってくれた。
更に、その2週間後、聡の言う「チッポケな病院」を案内されることになった。その病院は市川市南行徳にあった。
建物は老朽化が目立つ程ではないが、築年は大分経っているようであった。聡の言う通りにチッポケなのか、ベッド数もかなりあるようでもあるし、中程度なのか、良美にはよく解り兼ねた。
いずれにしても、いくらのんびり屋の良美とはいえ、「恐れ多くて、とても自分が嫁ぐ様な家柄ではない。父親は真面目で温厚な人柄だが、中小企業の出世には程遠い存在の会社員であり、母親も普通の看護師で、自分も普通の看護師だ。これでは余りにも違いがあり過ぎる」と、愈々辞退しようと思うのであった。
その日、夕飯の時、祖母と両親に聡の話をすると、
「それは良美が気を使って大変だと思うわね。結婚すれば玉の輿だけど、相手がいくら良い人でも止めておいた方が無難そうね。いくら現代の恋愛結婚と言っても、やはり釣り合いって言うものがあるでしょう。」と言った風に、聡にまだ逢った訳でもないのに、祖母と両親は、反対といった強い意見では無いものの、疑問符を抱くのであった。良美も一番気になることがその点だった。
それ以後も、聡からメールが続き、良美はデートを続けていた。そして、聡は逢う都度にプロポーズをくり返し、「愛している。絶対結婚したい。YESと言ってくれ。」と、熱心に口説くのであった。
良美は聡のプロポーズに根負けした訳ではないが、彼女自身も熱くなって来るようで、三ヶ月後、「愛されて結婚するのが一番の幸福」という言葉を思い出し、「彼とならば両親のような良い家庭を築いて行けるだろう」
と、心に決め、YASの返事をした。
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( 4 )
更に半年後、日本列島に桜前線のニュースが訪れる頃であった。
紀尾井町のホテル・ニューオオタニで、医師会の錚々たるメンバーを招いた盛大な披露宴を催し、30歳の聡と24歳の良美は目出度く新郎新婦となったのであった。勿論、花嫁・良美の輝くばかりの美貌に、「まあ、綺麗な花嫁さんね。」と、招待客の全員が息を呑んだ。
このようにして結婚をした夫の聡は、大学病院を辞めて実家の内科医として勤務することになり、良美も看護師を辞め、聡の妻として、暫く慣れる迄ということで家庭に入ることになった。
聡の実家は、経営する東西線南行徳駅傍の総合病院から車で10分の落ち着いた住宅地にあり、広い屋敷に良美は義父母と同居することになった。
日中は、義父の勝と夫の聡は病院勤務で出掛けてしまうので、大きな屋敷の中に義母の里子とお手伝いさんと良美の三人になるのであった。
良美は正直言って、聡の家に嫁いだその日から、もう緊張のせいか、息苦しい雰囲気に思えた。
朝食は義父母と聡と良美の5人が揃ってとるからまだ良かったが、昼食の義母と二人だけの時間には、何を話題にして良いのやら、本当に困ってしまった。義母は東京の家元で 鼓や日舞などを稽古しているようであった。勿論、茶道の心得もあり、良美には何の話もいわばチンプンカンプンだった。
良美が一番心が伸びやかでいられるのは、お手伝いさんに付いて、朝晩の食事の支度や掃除をしている時であった。
そうしていると決まって、義母から、「良美さあん」と声が掛かり、「今日は踊りのお稽古だから・・・」、「今日は歌舞伎を見に行くから・・・」と、帯を一寸見てくれなどと手伝わされるのであったが、これがまた、全く解らない。良美の祖母は着物を着ていたこともあったが、母は、結婚式とか何か特別の日でもない限りは洋服であったし、勿論、良美自身もそうであった。
実は、義母は日舞であれ、鼓であれ、永らく邦楽の稽古をしていて、着物や帯の見方・着付け、結び方はお手の物の筈で、何も本気で良美を頼っている訳ではない。何の事は無い。お手伝いを呼びつけ履物を揃えさせるように、彼女のプライド良美を呼びつけて見たかっただけのことである。
「この帯、どお? 似合ってる?」、「結び方は?」と言われたら、「はい、お上手ですね」、「素敵ですね」、「綺麗な帯ですね」と言えば、帯にも着物にも、何にも指一本触れなくても、これで十分だったのである。逆に、良美が手を触れていたら、折角の着付けがダメになったと、逆に怒りたくなっていたであろう。
義母は特別に意地悪というのではないが、上から目線というのか、少し高慢に振る舞っていたかったのではなかろうか。「私は医者の家の生まれで、医者に嫁いだのよ」、「貴女の看護師とは違うのよ」と、彼女は心の奥で何時もこう言っているように、良美には感じ取れる。それは単なる良美の僻みだったのだろうか。
夫の聡は、「両親は結婚に賛成している」と言っていたが、良美には初めての「面接?」の日から、義母のツンケンとした雰囲気が感じ取られていて、聡の話を100%信じていた訳ではなかったのであり、多少の覚悟をして嫁入りをした積りであったが、いざ結婚をしてみて、義母との生活がこれ程に窮屈とは思い至らなかったのであった。
義母は、お手伝いさんがいることでもあり、良美を特に働かせたい訳ではなく、兎にも角にも、かしずかせたいようであった。義母は何かにつけて、「良美さあん」と呼びつけるのが好きだった。これが日に何回かであったが、何時お呼びが掛かるか解らないから、緊張して待っているような感じになるのであった。
「はあい。お義母さま、只今・・」と言って、何時でも飛んでいけるように努めていた。
一方、義父は、「まあ、のんびりやって下さい」などと、大らかな人柄であった。帰宅すると、 水割りを2,3杯程度にCDを聞いたりしていた。就寝前の読書が又、好きなようであったが、 多忙のせいか、いつも何処か疲れているように見えるのであった。
結婚式で初めて逢った聡の妹の沙希は、三歳の男の子と一歳の女の子を連れて、泊まることは滅多に無いが、家が近いということもあるらしく、週に一度は遊びに来ていた。その日の良美は、二人の子供の機嫌を取りながら、義母と義妹に食事の用意から子供の食べる世話まで、振り回されることになり、沙希達が帰った時には、へとへとになる良美であった。
このような生活に疲れた良美は聡に義母と義妹のことは言えずに、「病院の方で看護師をやりたい」と訴えたが取り合って貰えずに、「もう少しのんびりしてからでも良いじゃないか」と、彼は言うのであった。
「のんびり処かかえって大変だ。」とも言えずに、良美は塞ぎこんでしまうのであった.
よく考えて、いや、よく考えなくても、総合病院に「大奥様」がいらして、良美は「若奥様」である。「働きたい」と言う方がどうかしているのであろう。義父母との別居も考えては見たが、相変わらず優しい聡に、とても言い出せることではなかった。
( 5 )
良美は、盆正月は勿論のこととして、埼玉の実家に里帰りはしていたが、時には頻繁に、否、ずうっと帰っていたいと思うことがあった。 が、しかし、義父母に「実家に一寸・・・」とか、嘘をついて、「友達と逢うので・・・」とかは、そうそうに言い難く、結局、二か月に一度位しか埼玉へ帰ることが出来なかった。
祖母は何時も在宅しているが、父母や弟妹の在宅している日曜・祭日に里帰りしようと思うと、優しい聡は、病院も休日なので、今も熱々の体で、「送って行く」と言うのであった。聡に送って貰うと、家中がてんやわんやの大騒ぎで、その割には大したおもてなしでもなくなるのだが、実家の聡に対する気持だけは200%籠っていて、
「お父様はお元気で何よりですね」とか、「お母様もお元気でいらっしゃいますか」というように、話は当たり障りの無い事ばかりで、良美は家族に話したいことは何も言わずに帰ることになるのであった。
かと言って、聡に毎回、「送って貰わない方が良い。私が一人で行って、思いの丈を話して来たいんだ。」と、断ることも出来なかった。それでも良美は実家に帰ると、みな解って貰えているようで、心が少し落ち着いた。
聡がたまたま用事があり、良美が一人で実家に戻ると、先ず、祖父の眠る仏壇に合掌をし、直ぐに畳にひっくり返って大の字に寝て、伸び伸びするのであった。そうすると、彼女は何か心の底まで伸びきって大らかになって来るように思えるのであった。
母親の厚子がお茶を運んで来て、「何ていう恰好をしているの?」
良美は、「うん」と言って、それからおもむろに起き上がり、家族の顔を眺めながら、お茶を飲むのであった。そこには、見慣れたおばあちゃん、お父さん、お母さん、そして弟妹の顔がにこにこ笑っている。熱いお茶が何とも言えなく、美味しく、これだけでホッとして、家に帰った意味があったなあと、心安らかになるのであった。同じお茶なのに、否、もっと良いお茶を婚家では毎日戴いている筈なのに」と、良美は思った。
ふと気が付いてみると、義母にお茶を入れて貰ったことは一度も無いのであった。何時も、良美かお手伝いさんが入れて、
「お義母さま、お茶が入りました。」と、言っていた。
義母から戴くお茶は、今後共に一切無いことだろうと思っていると、良美はハッとした。
そう言えば義母が、「良美さん、今度、お茶を差し上げますね。」と、言っていたのを思い出したのである。
炭を洗ってから湯を沸かすとか、何とか言っていたような・・・・。
小さな茶室で、義母と向かい合ってお手前の「お」の字も知らない自分はどうするのだろうかと、今から身の縮む思いがするのであった。
私は、おばあちゃん、お父さん、お母さんと、和室の座卓に皆んな揃って、おまんじゅうとおせんべいを食べながらのお茶が一番美味しいのに・・・・。あヽ、どうするのだろうと、良美は溜息を吐くのであった。
( 6 )
結婚して一年程の月日が流れた。
このような生活に疲れ果てて倒れてしまうのではないか、と思うようになっていた頃、良美は妊娠した。何しろ、佐藤家の直孫を産むのであるから、このニュースは、夫の聡は勿論、義父母が大変に喜んだ。
「体を大事にしなさい。」と、義母は言ってくれたが、「良美さあん」と、お呼びがかかることには変わりは無く、沙希も同様に遊びに来ていた。
良美は元来体が丈夫に出来ているらしく、つわりもさして酷くは無く、スムーズに月満ちて、健康な3,500gの男の子を産んだ。この佐藤家にとって大切な後継ぎの誕生であり、聡は勿論、義父母も大変な喜びようであった。
義父は早速に「一郎」と命名した。一郎は、すくすくと元気に育って行った。
義母は、一郎には穏やかな目を向けるのであったが、良美に対する態度は変わらなかった。沙希の子供達は少し大きくなり、二人して家中騒いでいた。
要するに、良美が一郎を産んだ後も、佐藤家の佇まいは何も変わらなかったが、やはり、「母は強し」か、一郎を産んでから、漸くにして良美は、この同じ屋敷の中で、腰を落ち着けて生活して行こうと思うようになって来ていた。
それから二年後、良美は女の子を産んだ。喜ばしいことに、又も元気な良い子で、義父は二度目の命名をし、「理沙」と大きく墨書してくれた。
二人の子供が生まれてからの良美は、いよいよ気持が据わったのか、義母のことも沙希のことも大して気にならなくなって来た。 彼らは育ちが良過ぎて、人の心が解らない人達なんだと、思うようにしたのである。
こう思えるのも、良美は二人の子育てに夢中で、あまり人のことなど気にしている暇がなかったのであった。一郎は駆け回るし、理沙は泣くし、てんやわんやの毎日に疲れて、子供を寝かせれば、自分もバタン・キューの日々であった。
当然、理沙には夜中に起こされてミルクをやっていたが、やり終えると、子供と競争のように直ぐ眠った。
こうして、良美は二人の子育てに振り回されている内に、だんだんと、良い意味で神経が太くなったというか、大物になって行くようであった。
( 7 )
結婚して五年の月日が経っていた。
聡は、このところ何か寝つきが悪く何時も冴えないような顔つきをしていて、義父の勝も似たような雰囲気であった。
昨夜のことであった。
義父と帰宅した聡は、真っ蒼な顔をして良美にこう言った。
「うちの病院が院内感染で明日の朝刊に載ることになってしまった。」
「寝耳に水」とはこのことで、良美は、「なぜ、どうして・・・?」と、聞きたいことは山ほどあったが、聡は、詳しいことは何一つ話さず、また、問い返すような雰囲気ではなく、ただただ疲れ切っている様に見えた。聡は時々溜息を漏らし、眠れないようで寝返りばかり打っていたが、そのうちにいつの間にか、良美の方が先に眠ってしまっていた。
一睡もせずに明けたであろう聡は、午前4時、朝刊の配達を待ち構えていたように起きて、自分で新聞を取りに行き、さっと目を通すと、良美に無言で手渡した。
果たして、彼女の目に飛び込んできた記事は、「感染症で二人死亡」の大きな見出しと、院長の義父と副院長の聡と事務長の三人が並んで平身低頭している報道写真であった。
良美は声も出せずに、ただ、新聞を持つ手が震えて止まらなかった。
事件の核心は、院内感染で二人が亡くなった、という不祥事であったが、更に半年前に遡り、内分に秘していたであろう婦人科の手術ミスも発覚したのであった。
後日の週刊誌には、「虚偽の手術で、手術する程ではない小さな子宮筋腫を摘出された」とか、「子宮を取られた」とか、と訴える患者が続出したことが、でっち上げではないかと思われる程に掲載されたのであった。
かてて加えて、佐藤病院のここ数年に亘る、ずさんな管理による赤字経営などが取り上げられて、まさに、此処まで書くものかと思われる程の取り上げ方であった。
良美が初めて義父の病院を訪ねた時、手直しをしていない建物のことなどを振り返って見ると、あの頃、既に経営は思わしくない方向に傾き始めていたのだろうかと、今になって良美は思うのであった。彼女が聡に嫁いで来てからずっと、義父が疲労しているように見えたのも、義母や聡にも話をすることも無く、独りで悩み苦しんでおられたのだろうか、本当に気の毒なことであったと、彼女は思うのであった。
( 8 )
更に半年が経っていた。
義父の病院は、院内感染による死亡事故以来、患者数が激減して空きベッドが目立つようになって来ていた。それと同時に、当然の事ながら多額な損害賠償を実施することとなり、それ以前の赤字経営の負担にも耐え兼ねて、遂に倒産に追い込まれてしまったのであった。
良美は今、総武線沿線の千葉市の賃貸の団地に住んでいる。南行徳の広い屋敷等の資産は一切処分して倒産の事後処理に充てたので、義父母と夫と二人の子供と、六人で住んでいた。
言う迄もなく、お手伝いさんには事件後間もなく引き取って貰っていたので、育児は勿論のこと、義母は小さい時から、結婚してからも何もやったことが無い人なので、家事全般に亘って、彼女がやっていた。
良美は勿論、一連の事件に大変なショックを受けたが、その後の引越しや六人家族の朝昼晩の食事や掃除洗濯、更には二人の育児に四六時中追われて、余り、物事を深刻に考える暇が無かった。また、良美が深く考えたからと言って、解決するよう問題ではなかったのだが・・・。その内に時間が少しずつ衝撃を薄れさせて行くようであった。
義父の勝は心労が祟ったのか、毛髪も急に薄くなり、窶れが目立つようになった。体も一回り小さくなり、陽気でおおらかな性格は何処へやら、時折、陰鬱な影を見せるようになっていた。
彼は七十歳で、開業医ならまだ仕事を続けているかも知れない年齢だが、あんな事件の後には、知人や友人に仕事の依頼をするのも憚られたのであろう。また、それ以上に、先代からの小さな病院から総合病院にまで発展させた自分のこの結末に、何か一言を漏らす訳では無いが、内心は忸怩たる思いがしているのであった。
彼は日々読書などをしているが、内心の寂しさは譬えようもないであろう。
一方、義母の里子は六十九歳であるが、義父同様に一回りも二回りも小さくなってしまっていた。
相変わらず毅然とはしていたが、「ツンケン」とした雰囲気は無くなり、何処か控えめにさえ見え兼ねない程の穏やかな義母になっていた。
彼女にとって、この世に生を享けて以来、自分で撒いた種ではないが、初めての挫折だったのではないだろうか。
何不自由なく「お嬢様」として育ち、結婚してからもずっと華やかに暮らして来た彼女の今の心情は測り知れないであろう。
彼女は新聞に騒がれて以来、家元の稽古も全て辞めてしまっていた。かと言って、自分一人の稽古も余りする気が無いようであった。外出の機会も殆ど無くなり、着物が大好きだった義母は、タンスに眠らせている、信じられないような着物の山に、どんな思いをしているのだろうか。
良美には邦楽のこと着物のことは解らないが、同じ女性として、義母の寂しさは理解できるような気がするのであった。
外出の際、「良美さあん」と良美を息苦しい程の緊張を与えた声も、お手伝いさんに「草履出しておいて」と言った声も、今は全く聞くことが無く、良美には時折、ただ懐かしく思い出されるのであった。
今では、「お義母さま、ご飯ですよ」、「おやつですよ」と、良美の方が義父母を呼ぶことが多くなっていた。
このような日常にあって、義父母に喧しくはあるが、明るく心和ませてくれる一時がある。
孫の一郎と理沙が、「ねぇ、おじいちゃま」、「ねぇ、おばあちゃま」と、たどたどしい言葉で、首に手を回し、膝の上に乗って来るのであった。
時たまには良いのかも知れないが、それが頻繁になっては、ご自分の趣味をお持ちの義父母にはご迷惑だろうと、良美は、「あまりお邪魔してはいけませんよ」と、声を掛けている。
義父母が心底から立ち直るには、まだ暫くの時間を要することであろう。
梅の花もそろそろ咲くであろう。良美は思った。「余計な世話かも知れないが、四温の日には、一郎と理沙を連れて行く散歩に、義父母を誘ってみよう。」
房総の春は早い。聡の休日に、安房の水仙ロードを訪れるのも良いかも知れない。良美は義父母と子らの声を聞きながら、そう思うのであった。
聡も心労で一寸痩せてしまったが、立ち直るも直らないも働かなければ、六人家族が飯の食いあげになる。
彼は、倒産から一ヶ月後には、友人の伝手を頼って、勤務医として仕事を始めていた。余計なことを考えなくて済むのがかえった良いのか、明るい顔で精勤しており、上手く行っている様であった。
良美は、何も彼もが筒抜けのような狭い家に、家族六人がひしめきあって暮らしている今の生活が、結婚以来、一番心安らいでいるように思えるのであった。子供たちがもう少し手が掛からなくなったら、自分も看護師として勤めに出たいと思っていた。
それから2ヶ月ばかりが経っていた。
聡の妹の沙希の下の子が昨日、小学校に入学した。母親の沙希と手を繋いで、桜吹雪の校門をくぐったことであろう。
一連の事件後、沙希一家は、聡達が南行徳から千葉市に引っ越して遠くなったり、子供たちが大きくなったせいか、滅多に顔を見せなくなっていたが、今日は、義父母がこの家で入学祝をすることにし、沙希の家族が揃って来てくれることになっていた。
義父は心から嬉しそうに落ち着かない様子で、「美味しいケーキ屋さんを知っている。」と言って、丸く大きなケーキを調達してくれ、義母は花を買って来て華やかに活けてくれた。
大勢の家族で食べるには手巻き寿司が良いのだが、良美は、子供たちが小さいので、桶一杯にマグロのとろやエビにイクラを飾った「海鮮ちらし寿司」を作った。時期的に菜の花の香りもピッタリなので「おすまし」にし、更にサラダには苺を盛り付けたりした。
義父母の好きな煮物もたっぷりある。デザートは入学祝のケーキにアイスクリームである。
聡は近頃、余りアルコールを飲まないようになっていたが、今日は妹夫婦と楽しくやりたいと、冷蔵庫にビールに並べている。
一郎と理沙も、暫く振りでいとこ達に逢えるのが嬉しいのか、狭い家中を駆け回っている。
今にも「ぴんポーン」とチャイムが鳴り、四人の顔が飛び込んで来そうである。
(了)
