明日、明後日へ

2014年2月28日 0 投稿者: seiko

足が攣ったりして夜半に目覚めて稀に眠れないことがある。

大分前、子供等が巣立った後に胸にぽっかり穴が開いたように寂しくなる事を「空の巣症候群」という言葉があった。とうの昔に私はその時期を卒業しているのだが、これからの人生を思う時、虚しくなったり、ふと無為徒食という言葉を思い出したりもする。

確かに夜中は碌な事を考えないようだ・・・。

今朝、散歩をしながら、昨日の夜中に考えていた人生80年、90年の長命時代のことが、どうしても頭から離れないのだ。

信長の「人生50年・・・」

家康の「重き荷を背負いて・・・」の時代には思いも及ばなかったことである。

人それぞれ「重き荷」があるように、私には子育てであったろうか。みな健康に恵まれたのでたいして重荷とも言えないが、それでも三人であるから大変ではあった。

こうした役割を終えた後に、短命な人、長命な人がいるから一概には言えないが、余生と言うより第二の人生が待っている。伊能忠敬が日本地図を作成したように、何か一つ、事を成し遂げるに十分な2、30年もの時間があるのだ。

そこで真っ先に考えられるのが、生き甲斐である。伊能忠敬とはあまりにもかけ離れた話であるが、高齢者の生き甲斐は若者のように捩じり鉢巻で探すようなことではなく、(当然若い時分からの積み重ねにもよるだろうが)そんなに難しいことではなく、何でもない日常を、一日一日丁寧に生きて行くことの中にあるように思えるのだ。

日本には太古の昔から伝わる知恵と言おうか、日々新しく楽しくさせてくれる風習、行事が沢山ある。雛祭、七夕祭、芋名月などと枚挙に暇がない。

もうすぐ節分である。赤鬼の面付き豆を買い、「福は内、鬼は外」と夫と豆まきをしようと思っている。夫も私も、年の数だけ豆を食べるのも大変になって来た。掃除機で吸った方が早そうである。(現代版豆まきと笑っている)

私も僅かばかりの趣味もあるが、もう少し新たな分野へと思うがなかなかである。どうも易き方へ、言い替えれば好きな方へと進むばかりである。静的な事ばかりで、動的な方向へ行かないのである。家庭菜園をしたり、小物を作る針仕事が好きだという人が羨ましい。どちらも苦手である。

自分自身の趣味もさることながら、体が健康なうちはボランティアを通し、少しでも他人の役に立ち、社会に参加したいと思っている。正に一石二鳥である。そしてそれが何よりの私自身の生きる喜びになっている。内容は前にも書いたので省くが、そのボランティアが近隣の人との助け合いになったり、良き友との出逢いの機会になったりしている。これこそが生き甲斐に繋がって来るのである。

要は一度しかない人生、如何に楽しく過ごすかである。日々、小さな目標を持ち、教を精一杯生きる。それが心身の健康へ、明日、明後日へ、そして10年後、20年後の自分自身に繋がるように思えるのである。

梅が二、三輪ほころびかけている。来週あたり、夫と紅白の梅林の下に弁当を拡げるつもりだ。もう四温の日も多く、目白も沢山飛んで来るだろう。