HAPPY DAYS ~東欧三カ国旅行記~
(Ⅰ)
1月半ば、姉と冬の中欧、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーの3ヶ国を巡る旅に出た。
成田より、直行便で11時間、オーストリアの首都ウィーンへ到着、午後4時、ヨーロッパの日は短く、すでに薄暗く夕方の気配が漂っていた。緯度は北海道と同じ位、夜は寒く氷点下になると聞いていたが、東京とあまりかわりはなく、思っていたよりも寒くはなかった。
当夜、早速に、何百年もかけて18世紀に完成されたシェーンベルグ宮殿を見学した。それがライトアップされて、闇に浮上する様は、私が思い描いていたより更に美しかった。ウィーンのシンボルとも言われるシュテファン寺院の二つの尖塔や小沢征爾氏も音楽監督をされたというオペラ座界隈も期待を上回り、夢の世界へと私を誘った。時節的なこともあり、イルミネーションが街全体を一層華やかに魅せてくれた。軽く一廻りして、心を残しながらも、明日への期待を込めて、ホテルへ帰ることになった。睡眠不足のせいか、疲れていたのだろう、ベッドに入った途端、バタンキューであった。
翌朝、爽やかに目覚め、まずしっかりと腹拵えをしてから、昨夜教わった通り、トラムカーを乗り継いで、16世紀以降中欧を支配したハプスブルグ家の夏の離宮であるシェーンブルグ宮殿へ向った。今日は時間をかけて、屋内外をゆっくりと見学することが出来た。女帝マリア・テレジアは黄色が好みだったとの史実通り、外壁は総クリーム色の壮大な建物が朝日を受けて、昨夜とは又違った青の美しさを見せてくれた。
シェーンベルグ宮殿の屋内は、部屋の数が1400余り、広さなどは言うまでもなく、内装は優美なロココ調というのだろうか、壁画、天井画、シャンデリア、天蓋付きベッドなど、どれもこれもが言葉を失う程に豪華絢爛として目映いばかりであった。
広大な庭園は、対角線上にも、又直線上にも並木道が続いていた。この上ない立派な園であったが、今は冬枯れの寂しさを残していた。
栄耀栄華を極めた王宮の金箔の窓辺に佇んで庭園を眺めながら、フランスのルイ16世に嫁いだ「パンがないなら菓子を食べれば良い」と言ったというマリー・アントワネットに思いを馳せた。言い過ぎでもあり、王妃への言葉として相応しくないのだろうが、「この親にしてこの子あり」だったのだろうかと思ったりもした。先に建てられたヴェルサイユ宮殿の鏡の間などが度肝を抜かれる程に贅を尽くされていたことを思い出していた。フランス革命が勃興して、彼女が38才の若さで断頭台に立つ身に至ったのは、時代的な背景に加えて、諸々の事態が重なり、悲運で気の毒な運命の人ではあったが、失礼ながらそうなるべくしてなったたようにも思えてくるのであった。
私は夢から醒めたように現実に戻って、次の部屋に入った。其処はマリア・テレジアの執務室であった。彼女は国政を司る女王であって、比較的小さな部屋で、キチンと決裁書にサインなどをしていたんだなあと、妙に感心したものであった。
隣の部屋では、趣が一変して、マリア・テレジアが入り婿の皇帝と11人の子等に囲まれた絵が掲げてあった。彼女は、水色のワンピースを纏い、母親らしくゆったりと、そしてふっくらとした容姿でとても幸せそうであった。本当に心に残る大きな一幅の絵画であった。
それから、旧市街の中心部に位置するシンボル的存在の聖シュテファン教会を訪ねた。それは1147年に建立され、やはり何百年も経て完成された荘厳な建物であり、1月の蒼空に白い二つの尖塔がくっきりと立っていた。堂内に入ると天井の高さ、ステンドグラス、更にイコンなどに圧倒されるばかりであった。殊の外イエス・キリストが処刑された後、自ら十字架を背負って復活されたという4、5枚の絵画は私の心を重たく、かつ厳粛にした。又、神父様の声が厳かに響き、2、30人の信者たちが俯きつつ、静粛に聞き入っている様子だった。クリスチャンでもないので十字を切る訳にもいかず、思わず合掌してしまった。心がほぐれ優しくなるような心持ちであった。そして出入口のろうそくの灯が私を温かく迎えてくれ、見送ってもくれたのであった。
ウィーンの目抜き通り、オペラ座を中心としたケルントナー通りは歩行者天国で、人の波であった。勿論、日本人観光客と思しき顔も沢山あった。ベルベデール教会と王宮のどれもが見応えがあり、街中をぐるぐる巡るだけで心が弾んだ。このような古く美しい街に大道芸人がいたり、バイオリンを奏でる人がいたりして、時々足を止め観光の人に混じり、見聴きするのもとても楽しかった。
中世紀のような美しい街に似合うのは、彫が深く青き瞳の色白の八頭身というより、顔が小さいので十頭身のようなチャーミングな女性と男性が颯爽と歩いている若いカップルである。それは正に映画のシーンそのものであった。又、赤ちゃんや幼児は私を誘拐魔にしかねないほどに、お人形さんそのもののようで可愛らしかった。街の中心地のせいか、日本より高齢者はあまり見かけなかったが、一人二人出逢うと、当然のことなのに、こんな美しい街にも高齢者がいるのだなあと思ったり、私には一瞬違和感を覚える事もあるのであった。
私達は観光に疲れたのでお茶を戴く事になった。名前は忘れたが、何とこの喫茶店はトイレが中までヨハンシュトラウスのワルツ、ワルツを流すことで有名なのだそうだ。流石に音楽の都、ウィーンである。舞踏会を思い浮かべながら、私も用を済ませて戴いた。
近くの市立公園では沢山の彫像に出逢えた。ヨハンシュトラウス2世の金色の像に触れ、私も音楽に関わってきた身として、比較の仕様も無いが、胸に染み入るものがあった。
隣接する木の間にはヴルックナーやシューベルトなどの像が立っていた。中でも印象的だったのは、マリア・テレジアを中心とした何人かの像の中に、5、6才と思われるモーツアルトが宮廷音楽家の父親と一緒に立っている姿であった。もうこの年で、すでに宮廷でピアノを弾き活躍していたというのだから、天賦の才能と言う他はない。マリア・テレジアにも大変可愛がられたそうである。マリー・アントワネットに求婚した逸話も又楽しい。モーツアルトは本当に心安らぐ曲ばかりで、私の三人の子育ての毎日の目覚まし時計替りに活躍してくれていたことを懐かしく思い出されたことであった。何のことはない、私自身、彼の大ファンなのであるが、残念ながら今回は方面が違うので、モーツアルトの生誕地、ザルツブルグを訪れることはなかったのであった。
オペラ座の出し物は毎日違い、4、5時間かかるそうである。折角、ウィーンまで来たのにと思ったが、夜の早い私には無理で諦めざるを得なかった。その代りと言っては何だが、夕食は室内楽を聴きながらとなった。勿論、ヨハンシュトラウス2世の「ウィーンの森の物語」や「美しき青きドナウ」に代表されるウィンナーワルツの名曲の数々であった。更に日本人へのサービスのつもりか「さくらさくら」や「荒城の月」なども演奏してくれた。姉が小さな紙幣を出し、好きな曲をリクエストしたので、私も真似をして、ヨハンシュトラウスの「ピチャートポルカ」を弾いて貰った。ただただうっとりと聴き惚れて、二時間ばかりを過ごした。
ウィーンとは今日でお別れ、楽しい一夜であった。夜、ホテルのカーテンを締めようとすると三日月がこうこうと輝いていた。明日も晴だろう。
因みにウィーン少年合唱団は昔程の応募はないという。これだけグローバル化した時代に海外遠征で時間をとられ、勉強が疎かになることや変声期が来た時のことなどを考えると多くの親が躊躇してしまうのだそうである。なる程、頷ける様な気がして来るのであったが、一抹の寂しさも感じたことであった。
(Ⅱ)
旅より戻り帰宅した明くる日、「ウィーン」だけを書き、一週間が過ぎてしまった。体調が今一つだった。忘れたことも出て来たので端折ることにした。
話は突然4日目に入る。
今日はスメタナの組曲「わが祖国」で有名なチェコスロバキアの首都、プラハである。交響曲「新世界」のドボルザークと共にチェコの二大作曲家であり、私達現代人にとって余りにもお馴染の19世紀後半の人族音楽家である。
この地プラハは、1963年、自由への革命を興すが、残念なことに実ることのない終末を迎えたことで知られている「プラハの春」とも言われている哀しい歴史を持っている。
プラハはそれほど大きな街ではないが、東岸の中心にある旧市街は中世のゴシックやバロック、それにルネッサンス風というのだろうか、そのような様式の建物が比較的小さく立ち並んでいて、豪華というよりも、私にはお菓子の家を想像させ親しみを覚えさせてくれたのであった。そしてそれらは昨日散策したチェコの東部テルナの旧市街にも似ていた。
旧市街より、カレル橋に出た。
それはモルダウ川に架かるプラハ最古の石橋であって、その名の通り、カレル四世によって完成された。そこは歩行者天国になっており、いつも観光客で賑わっている。私もその中の一人となり、モルダウを見ながらゆっくりと行きつ戻りつ楽しんだ。又、橋には30体程の聖人の彫像があり、中でも一番目をひいたのは、1549年、日本の鹿児島に上陸して、初めてのキリスト教を伝来した宣教師のフランシスコザヴィエルの像であった。日本は戦国時代、異国での活動はどんなにか苦労されただろうとしみじみ思った。私は信者ではないが、日本に布教されたというだけで、彼に親しみを覚え、暫く像の前に佇み、静寂の境地にいた。
それから私達は電車を乗り継いで、チェコの南部のプラハ城に向った。歴代の王の居城が並び、名実共にプラハのシンボルである。9世紀に着工し、増改築の変遷を繰り返し、14世紀のカレル4世により完成して、現在に至っているという。絵のように美しいプラハ城と赤瓦の家並が素晴しくマッチしていて、一時心を奪われる私であった。モルダウ川の西岸の小さな丘から見下ろすと、それは昨日感激を与えてくれた世界遺産のチェスキーフロムエフにも似ていた。
昼食は、サラダ、スープ、ビーフシチュー、デザート、コーヒーというと普通だが、ボリュームが日本と違うのである。ヨーロッパの人は概して体が大きいから良く食べるのだろう。私も残さずしっかり食べた。午後への大きな力になる。
その足でレオポルド美術館へ向った。途中、若い男性が何処へ行くと聞いて来たので、「シーレを見に行く」と言うと、すぐ近くだからと私達をさっさと自分の店に連れて行ったのはとてもおかしかった。クリムトと、エゴン・シーレのリトグラフにスカーフやマグカップと何でも揃う、いわば専門店だったのだ。沢山買わされそうになったので、「No Thank you」と言い、姉とそそくさと逃げた。店を出て、一、二分の所に捜し求めていたミュージアムが目の前に余り大きくなく且つさりげなく建っていた。先刻の店は美術館に隣接する販売店だったのだ。
オーストリアの画家エゴン・シーレの「死と乙女」、それに「クリムトの接吻」に出逢った時には本当に嬉しかった。
「接吻」は日本でよく目にしていた長方形ではなく、1.5メートル程の正方形、正に圧巻であった。
エゴン・シーレはクリムトに弟子入りした時は、「もう僕を超えている」と師に言わせた逸話が残っている程に、有名な天才画家だ。私はかつて読んだ五木寛之氏の本を思い出していた。シーレは妻の死の三日後、後を追うように、同じスペイン病で夭逝して、人々に大変惜しまれた。奇しくも亡くなった年が同じ1918年、師クリムト58才、弟子シーレ28才、出逢うべくして出逢った因縁のようなことも感じてしまうのであった。
私は又、ゴッホが精神を患って最後の作品とも言われている「アルルの一風景」を見ることが出来た。弟のテオと文通し活躍していた頃の「糸杉」や「跳ね橋」のような精彩は失われ、「もう病んでいるなあ。」と思われる作品が悲しかった。が、巡り逢えた喜びは大きかった。ゴッホはもちろん私の最も好きな画家の一人でもある。
又々、美術館の訪問となる。
アールヌーボーを代表するチェコスロバキアの画家、ミュンシャの「四季」の四連作を鑑賞した。
優雅そのもので女性の理想を極めた絵画のようでもあった。又、パステルカラーの色彩が淡く、日本のいわさきちひろさんの画をちらっと思い出させもし、私を優しく包んでくれた。
10年程前、絵が好きだと知っている次男の友人がミュンシャの出世作「シスモダ」のポストカードで便りをくれたことがあった。元気で暮らしているだろう彼の事をふと懐かしく思い出しもしていた。
夕方、マリオネットのオペラ鑑賞へ。
モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」の人形劇である。一応あらすじは読んでは行ったが、歩き過ぎて昼の疲れが出たのか、眠くて〱鑑賞というより、チラッと人形を見た程度だった。日本の伝統芸能である浄瑠璃にも何処か似ているように思えた。
プラハの夜は勿体なくも、このようにして居眠りに終わってしまったのであった。
(Ⅲ)
突然話は飛んで6日目はプラハからハンガリーの首都ブタペストであった。
1873年、中欧最大の都市として繁栄した西岸のブタ、商業を中心に発展した東岸のペスト、この二つの市が、ドナウ川を真ん中に「くさり橋」によって結ばれ、プタペストと呼ばれることになる。ブタペストはこのくさり橋を外しては語れない。
ブタペストはドナウの真珠とよく讃えられるほどの美しい街である。そのランドマークの一つがゴシック様式のマーチャーシュー教会のモザイク模様の屋根を石塔が凍て空に一際高く聳えていた。この教会は13世紀ベーラ4世によって建立され、15世紀まで修復を繰り返し、マーチャーシュー王によって完成されたという。今回の旅でもいくつかの教会を見て来たが、聖堂内は又それらとは違う、中近東を思わせるような色彩の文様に幻想的な異国の雰囲気が漂っていた。オスマン朝に占領された時、ステンドグラスが取り外され、後に又填め直された話にはとても驚いた。それ程大切にされて現在に至っているのである。ステンドグラスのマリア様が微笑んでおられるように見えた。
マーチャーシュー教会の裏側にとんがり屋根の5つの丸塔とメインの高い尖塔の建物即ち「漁夫の砦」が建っている。ここは要塞ではあるが、かつては魚の市が立っていた事からこの名が付けられたそうである。メルヘンチックで可愛らしく、小さくすれば7人の小人が出現しように思えて私の心を楽しくさせてくれた。
夜はドナウ川のクルージングであった。ブタペストの昼の市内のそぞろ歩きも良かったが、くさり橋から見るライトアップされた国会議事堂やマーチャーシュー教会は、昼とは又格別に違い、闇の中に中世の美が毅然と建っているのであった。音楽は勿論ヨハンシュトラウスの「ドナウ川の小波」に「青きドナウ」である。サービスのワインを一杯戴き、ただただ夜景に酔いつつのあっという間の4、50分であった。
これがこの旅行最後の晩餐であり、心に深く思い出に残る一夜になったことは言うまでもない。
(Ⅳ)
話は飛び飛びになってしまったが、今日は旅の7日目、ブタペストからウィーンに戻り、帰国の途に就くことになった。早いものである。天候にも恵まれ本当に良い旅であった。
これまで姉と旅に出ると、概ね失敗の連続で珍道中となり、笑い話にばかりなってしまうのが常であった。
今日は自由行動が大半だったにもかかわらず、失敗もあまりなく、非常にまともな、見所の豊富な素晴しい旅となり得たのは姉のお陰と言える。感謝感謝である。
彼女とは「ありがとう、又ね」と来月、お茶を飲む約束をし、成田で別れることとなるのであるが・・・・。
だが誰によりも感謝しなければならないのは、快く旅立たせてくれて、快く「お帰りなさい」と迎えてくれる夫にである。本当にありがとう!
旅はいつも私をHAPPYにしてくれる。そして帰国が又嬉しいのである。
成田空港を飛び立ち、8日間のHAPPY DAYSの旅を終えて、いざ日本へ帰国。朝焼けの茜色の空が何とも言えず美しい。暫くして凍てつく富士の霊峰が朝日に輝いて見えて来た。東京は風花模様と、機内の天気案内は告げていた。搭乗機は愈々、高度を下げ始めた。
