生きているとは
著者は忘れたが、「長寿の歓迎されなくなった時代」という本が出版された。この手の本は珍しいのではないだろうか。私には初めてである。今までは「如何に健康で長生きするか」ばかりのテーマだったように思う。まだ昨日のことで読んでいないが、「長生きが歓迎されない」とは尤ものことのように思えるのだ。
諸手を挙げて喜んでばかりおられない。
様々な問題があるのだろう。
高齢者に「高度経済成長期を支えて来たのだから大事にせい」と言われても、あまりにもその人数が多過ぎる。団塊の世代と言われた人たちも高齢者の仲間入りをして、今や4人に1人が65歳以上の高齢者だそうである。あっち向いてもこっち向いても高齢者に出会う。かく言う私自身もその一人である。
近時、アベノミクス効果で経済が少し上向きとは言え、就職も結婚もままならない若者がどうやってこの老人人口を支えれば良いのだろうか。少子化問題も然りである。その上高齢者医療費のかかり過ぎを言われて久しい。
私の住んでいる今の街が出来て40年、街も老い、人も老いてしまった。子等は巣立ち、当時の賑わいはなく、夫婦で散歩されている元気なカップルもおられるが、昔はあまり見かけなかった足をひく人や杖を突く人を結構目にするようになった。
救急車のサイレンの音もそう珍しくなくなり、路地に子供等の声を聞く事もあまり無く少子高齢の街と化した。郊外の親戚の家を訪ねても似たり寄ったりである。
高齢化、高齢化である。
私は息子に、私が倒れたら即刻殺してくれるよう言ってみたが、息子は犯罪者になりたくないと、にべもなく断られた。尤もな話である。私も勿論、息子を犯罪者に仕立て上げようと思っている訳ではない。それこそ本末転倒である。
かと言って格別妙案があるわけではない。
本当にありきたりだが、延命の為の手術、治療はしないということくらいしか思いつかない。ましてや前述の高齢者医療費の増大に加担する「胃ろう」などとんでもないことである。決してしないことだけは息子達にとくと言ってある。
健康で長生きは良い。これは文句なしに目出度いことである。が、「寝たきり」「認知症」になり、子供に迷惑をかけて長生きをしたいという人は私の周囲では聞いたことがないように思える。
近頃は「介護貧乏」という新しい言葉まで生まれて来ている。子供が親の介護のために会社を辞めざるを得なかったり、親許を離れているが故の遠距離介護であったりと介護の方法も様々であるが、どちらにしても大変なもんだいであることには変わりはない。
介護施設への入居金、月額費の負担、高額医療の支払い、など〱考えれば私には頭が痛く、空恐ろしくなるばかりである。
これは最早介護貧乏という話も頷けるというものである。
ぽっくり逝く、病みながら長生きする、人には定められた寿命と言うものがあるから一概に言えないが、可能ならば生きているとは基本的に自己管理が出来、尊厳が保たれてこそと思うのは私だけであろうか。
医学の力によって呼吸しているだけの長生き人間にだけはなりたくないと切に願うばかりである。
江戸後期の禅僧、良寛の教えに
「死ぬ時は死ぬるが宜し」という言がある。
正にその通りだと思うのだが・・・。
冒頭の「長寿の歓迎されなくなった時代」の本に、私が今挙げた少子高齢化、介護制度、医学による長生きの問題などに僅かながらも触れるものがあるのではないだろうか。
確かに医学の進歩は日進月歩と言われ、目覚ましいものがあるのだろう。
集中治療室で私は死ぬ間際に、最新医学を駆使した蛸の足のようなチューブの管を「皆外せ外せ」と叫ぶだろうが、その声なき声は果して子供等に又担当医者に届くのだろうか。
