夫の羨む毛髪
旅から戻り、1時間程して、姉に土産話でもしようと思っていると電話のベルが鳴った。受話器を取れば丁度姉からであった。
電話の前にはいつもの鏡が掛っている。魔法の鏡でも何でもない。ごく普通の鏡だ。その鏡に受話器を持つ女の顔が映っていた。目は片跛、頭は禿、これは私ではないと、自分の顔を否定してみるが、家には私しかいない。現実の私の顔なのだ…。衰えがこのところ特に激しいのは知っていたが、自分でびっくりする程だ。もう土産話どころではない。姉の声と解った途端、一言も相手に話させずに口から勝手に言葉が飛び出してしまった。
「ねえ、私禿なのよ。どうしよう。髪の毛がなくなったのよ。今鏡を見ながら話しているのよ。私自殺しそうよ!」
ハゲハゲと禿の話をしつこく繰り返したら、電話だから見えないが、姉はゲラゲラ笑いが止まらないとばかりに笑い転げているようだった。終いに
「人の禿がそんなにおかしいの?こんなに悩んでいるのに・・・・」と怒る私に漸く笑いをこらえつつ、姉がとぎれとぎれ言うことには、
「私も同じ話をしようと思って電話したの」と言うのだ。
私は猫毛、姉は硬い毛と全く毛の質が違うから姉は大丈夫と思っていたのである。まさかそんな悩みを聞くとは思いもよらない事であった。
姉も同じらしいが、最近は読書していても、ご飯を食べていても、毛髪が降って来るのだ。清潔な話ではないが、勿体ないからといってご飯に落ちた髪の毛を食べる訳にもいかず、取り除いたりしている。おみおつけに入っていたりするとぞっとするのである。
これには姉妹仲良く困ってしまった。
私は他は安物だが、シャンプーとトリートメントだけは高価の上に非常にの三文字がつく商品を使って髪の毛のケアをして来たのにである。
又、ここ何年かは女性用育毛剤も出回っているので取っかえひっかえ使ってみた。が、実を言うと三日以上続かないのだ。朝夕、十滴程降り掛け、頭皮を一寸マッサージするだけなのにだ。
だからいくら買っても無駄で、効果の程は定かでない。
私も姉も着物が好きだが、もう着物は着られない。やっぱり女は髪が命なのだ。ペシャンとした頭に何を着てももう似合わないのだ。
私「二人で心中しようか」
姉「私は前向きだから遠慮するわ」と
にべもなく断られてしまった。
私人で死ぬ程の勇気はなし。
ただただ困り果ててしまった。
二人の会話は旅の話など全く出ることなく終始一貫禿の話に終ってしまった。
姉妹して結局何の妙案もなく、差し当たりお互いに医者に相談しようということで落ち着き、受話器を置いた。
帰宅した夫に酒の肴が足りなさそうなので、髪の毛の降る話をした。
「降る程の髪の毛があるなら良いじゃないか。禿になれば降っては来ない。」と言うのだ。
なる程確かに言えている。流石に私の夫である。
何と私は夫を羨ましがらせる程のふさふさとした髪の毛の持ち主だったのである。
明日の朝一番に姉に電話を入れよう。
今夜はぐっすり眠れそうである。
