永遠の未来 “敗戦忌語らぬままに父逝けり”

2013年12月31日 0 投稿者: seiko

父は戦争の話をしなかった。

敗戦後、私の物心ついた頃は、地方のせいか、昔ながらの古い家なみだけで戦争の傷跡が残っていなかったように思える。小さいせいか解らなかったのかもしれないが、食料も田舎のこと故、今でいう白い御飯を普通に食べ、特に不自由をしていた記憶がない。ただ、四角の卓袱台に、時々御飯を二、三粒こぼすと拾って食べろと父に注意された。

私にとってそれがたった二、三粒なのにと不思議でならなかった。

大人になり、戦争中の食糧難の話を人伝に聞いたり、又本で知ったりもして、漸く理解出来ることであった。父が何故戦争の話をしなかったかもである。

余りにも戦争体験が苛酷過ぎて思い出すのも、話題にするのも、辛かったのだろう。

このような少女時代の記憶しかない私が戦争のことを主題にするには非常におこがましいと思うが、今の日中、日韓問題を考える時戦争と切り離せないからである。

日本も可能な限りの手を差し伸べているのだろうが、中国・韓国にとっては忘れ得ない問題なのだろう。安部政権に替り一年になろうとしている。三ヶ国のトップが揃って頑固なのか、意地の張り合いなのか、首脳会談も開かずに今年も終わろうとしている。何とも寂しい限りである。

そんな折、靖国参拝の問題まで出て来ている。

いつの日か、これまでの戦争を本当の過去とし、互いに手を携え合える近隣国になる日が来るのだろうか。

私が戦争に関心を持ったきっかけは、昔のことで著者名は忘れたが、一冊の本との出逢いだったように記憶する。それ以後も特別選んで読んでいた訳ではないが、長年のうちに様々な戦争の話に出逢っていた。

未来ある少年が青年が、どうして戦争という名のもとに命を落とさなければならなかったのか、あまりにも無残であった。

私も子を持つ親として母親の苦しみや悲しみを思わずにはいられなかった。

諸先輩の話に耳を傾けたり、広島の原爆記念館や沖縄のひめゆりの塔を訪れる機会があったりした。

青春真只中の、本来なら箸が転げても笑うと言われる年令の乙女等と先生と136名全員の死は忍び難かった。

何本か見た戦争映画のどれも涙なしには見ることが出来なかった。

様々な問題が馳せ巡って来る。

そして米軍基地の辺野古の埋め立て問題など、今尚、戦争の後遺症がある。

人間とは何と愚かな生き物であろうか。

世界の何処かでいつも戦争をしている。戦争で惨禍に苛まれた何百万人という方々の苦悩を決して無駄にしてはならない。大切な教訓として誰もが心を律して行くべき課題だと思う。

今の私達に出来ること、それは平和の大切さを次の世代に声を大にして伝えて行くことに他ならない。

今、私には四才の孫がいる。女の子なのでおしゃまである。小さい子の一つ一つの動作、仕草が何とも言えず愛らしい。

この子が来ると私は必ず「南無南無しようね」と、

私と夫の四人の父母の眠る仏壇の前に連れて行き、二人して「ありがとうございました」と声に出して言い、合掌する。すると又紅葉の様な小さな手が愛らしい。

そしてこの子を見る時、輪廻転生をしみじみと思う。父母から、私から、息子から、孫へ・・・。そして又末孫へと。

この子は、私の永遠の愛の未来なのである。そう思うと愛おしさが更に増してくる。


戦争は決してあってはならないことである。私は永遠の未来への懸橋である幼子を前にして深く深く改めて思うことであった。